逃げ場がない

逃げ場がない(コラム53) 

ちょうど1ヶ月前のこと。手話タグラグビー教室を終え、家族と一緒に近所の銭湯へ行くことになった。銭湯ではあるが、黒湯の温泉やサウナもある。冷えた体には、嬉しい場所だ。

銭湯の前に張り紙があった。「本日、故障により黒湯が出ません」。なんということだ。店員さんに状況を聞く。修理は完了しており、湯を入れ直しているとのこと。それなら大丈夫だ。かえって混んでなくて良い。

黒湯は十分な量まで入っていた。ゆっくり温まった後、隣の炭酸泉に移るか、体を拭いてサウナに移動するのが常だ。サウナの入り口に目をやると、だいぶ混んでいるようだ。そこで炭酸泉へ。あれ、熱い。いつもはぬる湯なのにこの日は熱い。黒湯が故障したので、炭酸泉を熱くしたのだろう。

それならば、と水風呂へ。こちらは空っぽだ。故障の影響なのだろう。結局、この日は、熱い黒湯と熱い炭酸泉を繰り返すだけになってしまった。体は温まるが、いつもの満足感は得られない。

早々に浴場を出て休憩室で過ごしていると、家族も早めに出てきた。女風呂も同じ状況だったようだ。それを妻は「逃げ場がなかった」と表現した。

今度は10年前の話。教員時代の学年会でのことだ。学年会とは、その学年を担当している教員の打ち合わせのこと。そのメンバーでの飲み会を指すこともあるが、その時は真面目な話し合いの場だった。話題は問題行動のある生徒について。授業を真面目に聞かない。教員に対して馴れ馴れしい態度をとる、などだったと思う。「被害」を受けている教員は憤慨していた。ベテランの学年主任はそれを聞いて、こんなことを言った。「家庭で、父親も母親も余裕がないと子どもは甘えられない。誰か一人は暇な人がいて受け止めてあげれば良いのだけど、そういう家庭は少なくなっている。あの子にとっては、学校が逃げ場になっているんじゃないかな」。逃げ場のない生徒に対して、厳しく接しても効果は少ない。学年教員みんなで声をかけていくのが良いだろうという話でまとまった。

大人もそれぞれの「逃げ場」を持っているものだ。自分が楽に過ごせる場所だ。家庭、職場、あるいは、そのどちらでもない場合、第三の居場所へ行くことができる。子どもはどうだろう。第3の場所は、友達と遊ぶ公園か、習い事だろう。

今の時期(2〜3月)は、各家庭で習い事を見直す時期だ。小学校、あるいは中学校に上がる、塾に入った、塾の曜日が変わる、などなど。私のラグビー教室でも教室変更、退会の連絡などが頻繁に入ってくる。ほとんどは事前に聞いているが、先日予想外の保護者から退会の連絡をもらった。何があったのだろう。彼は来年も小学生だ。塾には行ってない。考えられるのは、本人にやる気がなくなったか、生活の乱れを理由に保護者が辞めさせるか、だろう。後者は考えにくい。前者か。

彼は2年前に入会し、全くの素人だったが、着実に上達していた。最近の練習でも活躍し、今後の成長が楽しみだった。来年度からは、少しずつタックルも教えることになっていた。少しずつ本格的なラグビーへと進む途中だった。

変化が急だったのだろうか。タックルが怖いのだろうか。いろんなことが頭をよぎる。指導が厳しすぎただろうか。楽しむ練習と厳しい練習を組み合わせてきたつもりだったが、この頃は厳しさが出過ぎていただろうか。彼にとって、グランドの中に「逃げ場」がなくなっていたのだろうか。

私自身が、あの炭酸泉のように熱くなり過ぎていたのかもしれない。熱い風呂から熱い風呂への移動では、十分な満足は与えられないのだと反省。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加