たのしいひなまつり 2

たのしいひなまつり 2

コラム69

手話講師は「ゆんみさん」によると、手話で生活している人は「マンガ脳」を持っているらしい。しかし、私はこれがどういうものなのか、よく分からない。そこで、マンガ脳と対比するものを考えてみる。小説脳だろうか。いや、マンガの対局が文学とは限らない。絵を用いない思考という意味で考えれば、言語脳が適当だろう。

マンガ脳が、手話のように空間や絵で考えるのに対して、言語脳は言語で考えるものと定義する。では言語とは何だろう。話が大きくなってきた。私の「言語脳」だけでは、足りないので、ちょうど今読んでいる「勉強の哲学」(千葉雅也,文春文庫)から知恵を借りてくることにする。

以下、同書からの要約。

人間にとって「世界」は二重になっている。リアルに存在するのは、モノ=物質の世界。そこに、もう一つの次元として、言語の世界が重なっている。「リンゴ」のように、普通に使う言葉は、現実に根ざしている。あの赤くて甘酸っぱい、手のひら大の果物を指す。私たちは、言語と現実を結びつけて思考し、行為する。

つまり、言語は現実にあるものに名前をつけたもの。手話も言語であり、同様の機能を持つ。しかし、時々、現実に名前をつけることなく、そのものを空間に表すことがある。「うれしいひなまつり」にあった「お嫁にいらした姉様」を表すとき、1人の女性が内側から外側へ移動させたのも、その一つだと考える。

同書には、次のような説明もある。

私たちは言葉の意味をわかっていて、言葉を「道具」として使っている。しかし、その道具が壊れる状況がある。例えとして「壊れた洗濯機」をあげる。動かなくなった洗濯機を蛇口から外す。そのときその大きな塊が不気味に思えてくる。不気味な「ただのモノ」になる。言葉も時々そのような状態になる。言語がただの音になってしまう。

筆者はこの例えで「言語の物質性」を説明しているのだが、私は手話に関連して、以下のようなことを考えた。「洗濯機」は「洗濯する機械」という現実に与えられた名前だ。それが、洗濯をしなくなった途端、名前が現実から離れてしまう。そこで違和感を感じる。手話の場合、「洗濯機」の表現は、「右手の指先を下に向け、手首を回しながら円を描く」となる(「手話パーフェクト辞典」米内山明宏 ナツメ社より)。これが動かなくなった場合、「壊れた」「洗濯機」とする方法もあるが、「洗濯機」という表現に変化を加えるのが自然だ。例えば、故障で回転しなくなったのであれば、右手首の回転を途中で止める。外傷によるものなら、左手でそれを表すだろう。空間で表現する手話の場合、どのように壊れたかのかも表現するので、「壊れた」「洗濯機」とするよりも、より多くの情報を伝えている。

この場合、洗濯機が壊れていても壊れていなくても、手話には違和感を感じることはないだろう。それは、この情報量の多さと関係しているように思う。

同書では、言語の機能を道具的と玩具的使用の2つに区別している。「壊れた洗濯機」のように、現実を表現するという目的的な行為のために言語を使うのが前者。後者は、言語を使うこと自体が目的となっている場合である。詩、ダジャレ、早口言葉などがそれだ。

そして「深く勉強する」ためには、前者から後者へと比重を移す必要があるとしている。それは抽象的な思考と関係しているのだろう。

では、この玩具的使用や抽象的思考に関して、手話あるいはマンガ脳はどのように働いているのだろうか。これが理解できればデフラグビーの指導に大いに役立つだろう。

たのしいひなまつりのレッスンは、手話をより深く勉強したいと感じさせてくれた。