歴史を学びたい(コラム79)-2
「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(新潮文庫 加藤陽子著)
歴史に関する知識の欠落を痛感した日の晩、この本を手に取った。著者は歴史学者であり、新聞でその名前を見ることも多い。私が初めて知ったのは2020年。菅政権が「日本学術会議」の新会員任命を拒否した際の、6人の法律・歴史学者の1人だった。6人は安全保障関連法や特定秘密保護法などで政府の方針に異論を示してきた。
読み始めた瞬間、良いものを選んだと感じた。本書は、高校生との対話をベースとしており、文章は平易であるが、内容は大人にとっても読み応えがある。章ごとに、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦、満州事変と日中戦争、太平洋戦争と構成されていて、それぞれ戦争に至るまでの過程、要因、主導した人物などが対話の中で描かれる。
序章「日本近現代史を考える」には、次のような内容が述べられている。歴史は、学校では暗記ものとして嫌われる。それは試験問題のせいである。教員数が多く、記述式の採点もできるのなら、授業は変わるだろう。
前述の「とても起きていられない」歴史の授業を思い出す。在学時、その先生に憤りを感じていた。しかし、試験が暗記を強制しているのだから、授業もそれに合わせたものになるのは当然であり、悪いのはその先生ではなく、制度にあるとも言える。(その15年後、私は母校に英語の教員として戻ったので、その先生と一緒に仕事をすることになった。とても面倒見の良い方で、お世話になった)
暗記しない歴史の授業から、現代を考える
暗記科目としての歴史では、事件の名前、年号、大まかな内容を覚える。本書では、教科書には収まらない、一つ一つの背景が解説される。それらは今まで知らなかったことばかり。埋もれた文献の中から市井の声も拾ってきて、その背景を明らかにする。歴史学者というのは、このように仕事をするのかと初めて知った。また、生徒からの予期しない回答に対して、「困ったな」などと反応しながら、柔軟に返すところに人間味がある。そして、決して彼らの発想を否定しない。頭の良い教育者というのはこういう人なんだな。
本書の中で、印象に強く残ったり、これまでのイメージを覆されたことは数多いが、一つだけ例をあげると、次の内容である。
日本の為政者の間には、戦略的な思考とか、安全保障観の一致が広く存在していた。
スタンフォード大のピーティー先生が『植民地』という本の中で書いている内容とのこと。では、その安全保障観とは何かというと、「朝鮮を第三国に占領されてはいけない」というもの。これは、ウィーン大学政治経済学教授であったシュタインが、山県有朋に伝えた内容である。日清戦争、日露戦争、そして太平洋戦争までも、こうした安全保障観に基づいたものであり、植民地政策も同様だったという。一方で、ヨーロッパ諸国の植民地政策は、国内の過剰な人口の捌け口であったり、公務員に役職を与えるためという側面があったのだ(第3章)。
過去の植民地政策に関しては、他にも様々な認識や意見があり、旧植民地との間で認識の違いが今も問題となっている。それぞれの意見について、歴史学的に妥当なのかどうかを見極めることが必要であり、それは現代の問題点をより深く理解するために不可欠だと再認識させられた。
歴史を知り、未来に生かす絶好の機会
本書を読み終えた数週間後に、韓国に行くことになった。良い機会だと思い、「新・韓国現代史」(岩波新書、文京 洙 ムンギョンス)も読んだ。そこに、歴史に関する知識が私に欠落している理由の一つではないかと思わしき記述があった。
「高度経済成長は、日本人の生活洋式・意識の変化を明らかにし、人びとの脱政治化や脱イデオロギー化、ひいては脱歴史化をおしすすめた。」(第3章 民主化の時代 P199)
高度経済成長期は1955年頃から1973年頃を指す。私は1975年生まれだから、その中で育った訳ではないが、振り返ると、私の周囲の大人たちから、政治や歴史に関する議論を聞いたことはなかった。それよりも、会社の仕事、あるいは趣味の話が多かったように思う。つまり、現在と未来の生活を豊かに過ごすことが優先され、私自身も社会人としてそのように過ごしてきた。しかし、今は時代の大きな転換期。歴史や政治を多方面から振り返り、未来を考える絶好の機会だと思われる。
日本語学校での小さな講義は、大きなことを考える好機を与えてくれた。