東京新聞(1月15日朝刊)に、目をひく写真があった。
「30年の教訓 阪神から能登へ」という連載記事の第2弾。写真は2枚並んで掲載され、それぞれ次のような説明が添えられていた。
「能登2024年」「1995年阪神」
記事のタイトルは「変わらぬ 避難所の姿」。どちらの写真にも、体育館の床にて毛布にくるまる被災者たちの姿が映されていた。
写真は、読者に様々なことを訴えてくる。災害に対する備えの質が変わっていない。市民をこのような状態にすることに対して、行政は何も反省がないのではないか。文章を重ねるよりも雄弁だ。
写真、映像、データなどによる訴求は、報道のみならず、あらゆる分野で用いられている。スポーツの現場も同じだ。
以前、所属したチームに、世界的に有名なトンガ人選手がいた。トンガという国は、南太平洋の小さな島国だが、フィジカルに優れたラグビー選手を数多く輩出していることで有名だ。
その選手はリーダーシップにも優れ、トンガ代表のキャプテンも務めるレジェンドだった。
ただし、当時は余りあるパワーや責任感が裏目に出たのか、不用意な反則が多かった。そこでチームスタッフと話し合い、私が彼にあるグラフを見せることになった。
グラフは、彼の試合ごとの反則数を示すものだった。横軸に対戦相手、縦軸に彼の反則数を示した。あまりシリアスにしたくなかったので、彼の笑顔の写真を切り抜き、反則の数だけ並べた。ある試合では、彼の笑顔(スキンヘッドに浅黒い肌)が縦に5つも並んでいた。
彼はこれを見て、しばし黙った。不愉快に感じたかなと少々案じたが、その後、真剣な表情で「見せてくれてありがとう」と言ってくれた。「こんなにも自分の反則が多いとは気づいていなかった」
次の試合から、不用意な反則は激減した。
もう一つ例を挙げたい。
点在する小さな「しみ」を見たことで、過去40年間の習慣を変えたという話。少々不潔な話題なので、予め勘弁願いたい。
我が家のトイレの壁に、いつの間にか、「しみ」ができていることを妻に見せられた。「立ってすると、いつの間にか跳ねて、こうなるらしいよ」
家族構成上、それは私の小便を意味していた。過去にも、できれば座ってしてほしいと妻に言われることはあった。飲食店の男性トイレにも「座りション」を要求する掲示を見ることがある。その度に、私は心の中で断固拒否してきた。
男は立ってするもんだ。もし外したら、自分で責任を持って掃除をする。
しかし、外さなくても汚しているという事実を見せつけられた。そして、その汚れは落ちないということを身をもって知った。(我が家のトイレ掃除担当は私)
こうして、私は長年の習慣を変えた。