2000年前後に「アリーmy Love」(原題Ally MacBeal)という、テレビシリーズがNHKで放送されていた。ボストンの法律事務所を舞台としたコメディドラマだが、毎回アメリカ社会を映し出すようなテーマが法定を舞台に展開される。脚本家の力量に感心しながら見ていた。
今も時々思い出す話がある。テーマは航空機事故。父親を亡くした家族の代理人を、主人公の事務所が引き受ける。事務所は、常識外れと言えるほどの金額で損害賠償請求をする。被告である航空会社の弁護団は、金額が法外だと批判した上で、「航空機事故には原因の分からないものが存在するのだ」と訴える。これに対して原告側は、次のような論理で陪審員に訴える。
「このような痛ましい事故を原因不明で済ませてよいのでしょうか。確かにこの金額は、これまでの常識から考えれば法外かもしれない。しかし、悲劇を繰り返させないために必要な措置なのです。事故を起こせば、これだけの支払いをしなくてはいけない。そのように航空会社に認識させるために必要なお金なのです」
脚本家のデビッド・E・ケリーは、ボストンにて弁護士として働いた経験を持つ人物。弁護士というのは、このように新しい価値を加えることで、勝利を掴み取るのか、と感心した。
25年1月20日、大阪高裁から、注目の判決が出された。7年前の交通事故で死亡した、聴覚障がいを持つ女児の「逸失利益」が争われたものだ。「逸失利益」とは、不法行為などの被害によって、本来得られるはずだった利益が得られなくなったことを指す。損害賠償請求の対象となる。一審の大阪地裁は、被害者が聴覚障がいをもっていたことを理由に、平均賃金の85%とした判決したが、2審の大阪高裁は、減額無しへと変更した。
原告であるご両親は「娘の人生が認められた」とコメントを残した。「障がい者だから仕方ない、という固定観念や偏見に対して、そうではないと言いたい」。「差別だと思って訴え続けてきた」と会見で訴えている。弁護団は「これまでと一線を画すものだ」と評価している。
ご両親、弁護団の主張に、私は全面的に賛同する。また、差別と戦う姿勢に敬意を感じる。その一方で、先のドラマの弁護士の訴えを思い出す。
「障がいがあっても同等」でよいのか。障がい者の「逸失利益」に新たな価値を加えることはできないか。
記事(1月21日東京新聞朝刊)によると、女児は明るい性格で、人とのコミュニケーションを取ることが大好きだった。補聴器を着けたお年寄りを見かけると筆談で話しかけ、学習塾では聞こえる子どもたちと一緒に学んできたらしい。
私は20代で難聴になり、以来聴覚障がいを持つラグビー仲間たちと時間を共有してきた。多くの聞こえない子どもたちとも接してきた。その私が感じたのは、この女児は将来、聞こえない人と聞こえる人とを繋ぐような、稀有な人材になったのではないかということだ。
これまでの法定の常識は、障がい者に対する評価を「減額」させることだった。今回の判決は、これを「同等」へと引き上げたが、もし弁護団が同等ではなく、数倍の額を要求したら、どうなっただろうか。
記事を読む限り、今回の事故に関しては、聴覚障がいの影響は無かったようだ。ただし、聴覚障がいを持つ人や、視覚障がいを持つ人は、交通事故のリスクと隣り合わせだ。
彼らへの損害賠償額を数倍に引き上げることは、運送会社への強い警告となるはずだ。障がいを持つ人はどこにいるか分からない。そうした人々を事故に巻き込めば会社にとって大きなリスクとなる。安全運転を徹底させるなくてはならない、と。
障がいを理由とした「減額」は、その意味でも間違っていた。しかし「同額」で十分なのか。常識を超える金額を請求することで、事故に対する抑止力が高まり、障がいを持つ人だけでなく、障がいを持たない人にとっても住みやすい社会の実現に近づくのではないだろうか。
参考資料:25年1月21日東京新聞朝刊21面 聴覚障害児の事故死賠償 「健常者と同等」減額せず