こういうコーチにはなるまい(コラム51)
動かない、教えない、聞かない。
20年前、高校ラグビー部のコーチになった時、こういう人になりたいという明確なモデルはいなかった。それまで教わったコーチたちの良いところを取り入れていこうと考えていた。ただし、こういうコーチは嫌だ、という思いはあった。
動かない。(選手が練習をしているのに、座って見ているコーチ)
教えない。(選手の失敗を指摘するだけ。どうすれば上手くなるのか教えてくれない)
威張っている。(話をするのは自分だけ。選手の話を聞かない)
そして、大前提として「練習を休まない」。
あれから20年近くが経った。ずっと専業でコーチをしてきたわけではない。選手兼任だったり、アナリストが本業だったこともある。しかし、細々と続けてきて、今は毎日、子どもたちに教えている。
少し教える方が、動きは良くなる。
その間、心境は大きく変わった。「練習を休まない」という大前提は、「練習は時に休むべき」へとなった。毎回同じコーチではなく、時には違うコーチに教わった方が良い。選手にとって新鮮だし、視野が広がる。家族の体調が悪い時にも、他のコーチに依頼することもある。自分の身に何かあって、長期間の休みが必要になった時に備えるという意味もある。
「動かない」コーチはダメだと思っていたが、自分もその仲間になりつつある。とはいえ、座って見ているわけではない。選手に練習の指示を出して、できるだけ見守ることにしている。以前の私はとても動いていた。練習時間を1分でも無駄にしないように、走り回って準備をしていた。それを止めたのは、歳のせいではない。その方が、選手が動くようになるからだ。若いほどよく動く。小学校の低学年生は、動きたくて仕方が無い。昨日は、練習中に雪が降ってきた。するとボールと同時に雪も追いかけ、キャアキャアとはしゃぎ回っていた。練習が終了すると、疲れ切ってグランドに倒れ込んでいた。力を出し尽くすような、良い練習ができたということだ。
「教えない」ことも板についてきた。あるいは「少しだけ教える」。細かいことをたくさん伝えては、選手は考えすぎて動かなくなる。選手に考えさせることは大切だが、練習の最終的な目標は、考えなくても体が適切に動くことだ。だから、練習の方法と、注意点を1つか2つだけ教える。集中力が切れそうになったら、競争をさせる。チームごとのレースにしたり、秒数を計測したり。子どもたちは競争も大好き。集中力を取り戻し、何度も繰り返し練習することになる。
「威張らない」のは、昔から変わっていない(と思う)。そもそも私には威張るほどの実績も、威厳もない。子どもたちの安全のために、大きな声で注意することはあるが、怒鳴ることない。また、自分だけが話すのではなく、多くの選手、コーチが話すように促している。ただし、選手と1対1で話す機会は減っているかもしれない。難聴のせいもあり、グランドで選手の声が聞こえないことがある。デフラグビーの場合、手話が読み取れないこともある。最近の音声認識アプリは、精度が高まっている。私の難聴は、今後老化で進むことは確実だ。今のうちから使うのもありだろう。
そういうわけで、今の私は、ときどき休む。練習中はまあまあ動き、たまに教えるようにしている。ただし、目と耳と心はいつも開いている。そういうコーチでありたい。