前編の続き
デール・カーネギーの『人を動かす』には、数々の名言が出てくる。どれも記憶に留めておきたいとメモをとっていると、全くページが進まなくなる。その中で、次の言葉が出てくる章は、いつ読んでも新鮮だ。
議論に勝つ最善の方法は、議論を避けること。
(人を動かす 創元社 文庫版 PART3 1. 議論を避ける)
カーネギーは、次のように説明をする。
議論とはたとえ勝ったにしても、やはり負けている。なぜかといえば、やっつけられたほうは自尊心を傷つけられ、憤慨する。そして、自説を変えることはない。つまり議論で相手を説得することは不可能なのだ。
次章(同2. 誤りを指摘しない)では、議論に代わる方法を挙げているが、そのヒントとしての偉人たちの言葉が紹介される。
「人に物を教えることはできない。自ら気づく手助けができるだけだ」(ガリレオ)
「私の知っていることは一つだけだ−自分が何も知っていないということ」
私(カーネギー)は、どう間違ってもソクラテスより賢いはずがない。だから、他人の間違いを指摘するような真似は、いっさいしないことに決めた。この方針のおかげで、ずいぶんと得をしてきた。
さて、25年1月9日の東京新聞トップは「被団協 落胆」。その顛末は、カーネギーの知恵を思い出す内容だった。
以下、記事の要約。
ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は、石破首相と面会。首相が平和賞受賞に祝意を示した後、会談は非公開で約30分続いた。出席者によると、核廃絶に向けた具体的な行動を求めたが、首相は米国の「核の傘」の必要性など持論を展開しただけで、被爆者らの要望には直接答えなかった。代表委員の田中煕巳さんは「首相の独壇場みたいになってしまった。反論する時間がなく残念だ」と話した。
自説をとうとうと述べ、相手に話す時間も与えない。この会談で被団協側が得たものはなく、首相が得たものは、出席者や関係者の強い不信感や不快感だろう。余計な議論をしないことで多くを得たとするカーネギーとは正反対だ。
記事によると、「今日は皆さんの気持ちを聞かせてもらい、今後の糧にさせていただきたい」と会談の冒頭で伝えているので、持論を述べる気はなかったのかもしれない。しかし、被団協側から、核不使用の重要性、核兵器禁止条約締約国会議へのオブザーバー参加など次々と要望を突きつけられ、議論好きの顔が出てしまったか。
首相もまた、映画「型破りの教室」に出てくる、やる気を失った教員の1人だとも言える。安全保障という環境のせいにして、仕方がないと諦める。私にできることはないし、私のせいでもない。
首相は「将来の核廃絶を目指す思いは同じだ」という説明もしているらしいが、本心とは思えない。そうであれば、核廃絶を目指す団体の話にじっくり耳を傾け、自分に何ができるのかを考えるはずだ。
世界に誇るべき賞を受けた年長者を、首相が持論で黙らせている様子を想像すると、何とも悲しい気持ちになる。これに対し、「(今後も首相に)しつこく会談を申し入れたい」という田中煕巳さんの言葉は、力強い。