国際手話×能狂言 異色コラボを観劇 2
コラム77-2
「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」
クリエイターのバイブルと言われる『アイデアの作り方』に、アイデアはそう定義されている。つまり、新しい発想や企画は全くの無から生まれるものではなく、すでにあるものを組み合わせて生まれる、ということだ。その意味で、日本の伝統芸能である能と、国際手話を組み合わせたこの舞台は、疑う余地のないアイデアである。
第1部の手話狂言が終了すると、休憩時間となった。私は受付に赴き、席の変更を依頼した。脇正面の席からでは、手話と表情が見えにくいからだ。案内係の方に話しかける時、無意識に手話を使っていることに気づいた。相手は聞こえる人なので、手話を使う必要ない。私は日常生活では口話で暮らしているが、その時は手話の世界に入り込んでいたのだと思う。館内のあちこちで、手話で話し合う人々の姿が見える。外国人客の姿も多い。新鮮なアイデアは、様々な人々を引き寄せる。
第2部は、能楽師による国際手話能「土蜘蛛」。狂言は役者2名のみの舞台だったが、今度は多くの役者が続々と舞台に上がる。笛、小鼓(こつづみ)、大鼓(おおつづみ)、太鼓の4種類の器楽者が正面に座り、右端に、謡(うたい)が2列になって正面向きに座る。
演者は7名。病気で臥せる源頼光(らいこう)、薬を届ける召使いの胡蝶、法師(実は蜘蛛の化け物)、頼光に蜘蛛退治を言いつけられる侍臣独武者(ひとりむしゃ)と、その家来の2人。
見どころは、土蜘蛛が蜘蛛の糸を投げる場面。頼光は源家相伝の名刀、膝丸を抜いて糸を払い、切りつける。独武者たちも、土蜘蛛の糸に手こずるが、取り囲んで最後には退治する。2階席には空席が多く、正面から手話がよく見えた。表情はというと、能にはそもそも表情がないようだ。物語の主役を担うシテ方は面をつけている。その面の上げ下げ(テラス、クモラス)で感情を表現するらしいが、そこまでは見えなかった。
演者たちの所作はゆっくりとしたもので、手話もゆっくりと表現する。斬り合いの場面であっても、早歩きしては止まって一言、また動いたら一言、という具合。その所作一つ一つに意味があるらしいが、私にはわからない。その一方、国際手話は概ね理解できた。というのも、観客には現代語訳が配布されており、これを読みながら演者のセリフを聞き、手話を見る。コミュニケーションの観点から言うと、理解するためのチャンネルが多いため、難聴者の私は助かる。
これに器楽と謡が加わって緊張感が高まる。セリフは少なく、動作も限定的。すべてが凝縮されていて、役者たちの迫力に引き込まれる。伝統芸能の世界に加えて、手話の世界にも没頭した。
観劇後に気づいたことがあった。私はこれまで劇場が苦手だった。セリフが聞きづらいからである。補聴器をつけていても、ホールの中は聞こえにくいことが多いし、早口であるとついていけない。家族と一緒に出かけることはあるが、観劇自体を楽しむことはなかった。自分にとって劇場とは、自分以外の人が楽しむ場所、と諦めていた。手話×能狂言というアイデア、役者の皆さんの努力のおかげで、観劇の楽しみを諦めるのはもったいないと気付かされた。
それもう一つ。手話は流暢でなくても良いのだと知った。デフラグビーの選手たちの会話は、こちらが読み取れないほど早いので、それに合わせようとしてしまう。指導中も、早く伝えたいという気持ちが強く、動きが早くなる。でも、ゆっくりで良いんじゃないか。
翌日、デフラグビーの練習があったので、早速「ゆっくり手話」を試してみる。いつもより、手が動く空間が広くなった気がする。これは分かりやすさにつながるはずだ。練習初参加の選手もいたので、練習後に能楽師なみのスローモーションで話し掛ける。こちらがゆっくりだと、相手の手話もゆっくりになるようだ。読み取りがしやすくなる。これは良いことに気づいた。
手話能楽師×ラグビーコーチの1人コラボ。この組み合わせも悪くない。