国語教育研究者、大村はま氏に「教えるということ」という著書がある。教員免許課程の教材として読んだ。当時は、感銘を受けたのだが、残念ながら内容は覚えていない。
それよりも「教えるということ」と聞いて思い出すのは、化学の専門家だった父のことだ。
子ども時代は、神童と呼ばれるほど学業優秀。大学院を卒業後、勤めていた企業から派遣されて博士号を取得。大変優秀な科学者だったらしい(あまりにも門外漢で詳しいことは分からない)
ただし、3人の息子たちは、そっちの方面はさっぱり。私を含め、全員見事に文系。その要因は、父の教え方にあったように思う。
「なんでこんな簡単なことが分からないんだ!」
数学の問題を質問に行くと怒られる。泣きながら父の部屋を出る。もう訊きに行くまい。数学とは実に嫌なもの。そう教えられてしまったように思う。
今日は冬休み最後の日。小学生の娘が、隣でタブレットを叩いて、算数の宿題を解いている。
「何これ!分かんない!」となぜか強気に訊いてくる。
「どれどれ、おお、こんな難しい問題をやっているのかあ、すごいなあ」
「ああ、パパはこういう問題は好きだなあ。面白いよねえ」
父のようにはなるまいと、おだてたり、なだめたりする言葉が、立板に水のように出てくる。
しかし、あまりに同じような質問が続くと、「なんでこんなの分からないの」という疑問が心の中を渦巻く。その疑問一つひとつを突き詰めて考えると大変面白い考察が生まれそうだが、そんなことをしていると宿題は終わらないので、脇に置いておく。
今のところ、娘は算数が好きだと言っている。よしよし。通知表はど真ん中だが、自分は得意だと胸を張る。大したものだ。
教える側の私も、好きになってきた。娘が中学高校へと進んでも質問に応えられるように、数学を学び直そうと思っている。
私にとって、教えるということは、好きにさせること。そして、自分が学ぶことなのだと思う。